21世紀をたのしむ「昴」俳句会
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現代俳句管見(八)  米山 光郎
2008-10-28-Tue  CATEGORY: 昴 9号
現代俳句管見(八)  米山 光郎

梅雨茸を掃きて禍福をくつがへす  小林 篤子
(「俳句」六月号)
 小林さん俳句は、総合俳誌でよく拝見している。俳句は己を詠う詞芸である
といわれているが、私も同感である。小林さんの俳句も自己中心の作品が多い。
この自己中心をいかに表白するか、ここに個性があるのだと思う。俳句の中に
自分をどう立ち向かわしめるか。極めて鮮やかに句を詠むのが小林俳句といっ
ていい。
 〈梅雨茸を〉の句には、人生に積極的に向き合っている作者の姿が浮かび上
がってくる。それは〈掃きて〉という表白の中に、全てがいい尽くされている。
俳句との一本勝負といえそうである。私の庭隅にうす茶いろの梅雨茸が一叢生
えていて、今日またその数を増やしている。秋の茸とは異なり風情のなさから
はけっして幸福感は湧いてこない。作者は、この梅雨茸を掃くことによって、
禍福をくつがへそうというのである。作者のエネルギーの強靭さを感じさせる
一句である。

つぎつぎと花を放ちて枝細る  野中 亮介
(「俳句」六月号)
 俳句では「花」といえば即ち桜花を指すことが、ことわりである。では一体
桜花と花はどう使い分けているのであろうか。これははっきりした定義はなさ
そうに思う。あるとすれば、桜と呼ぶ場合は桜の木の側に立って、花を呼ぶ場
合には作者の心の内に立って詠うということだと思う。しかし、この二つの思
いを一つに詠うことも当然あり得る。私の師、八束は常々季語の二面性を説い
ていた。あるいは、この桜花の季語からのことかも知れない。
 〈つぎつぎと〉の一句、見たままを詠ったまでのことである。それでいて読
む者の心を惹きつける力はなん人であろうか。〈枝細る〉という結句の実在感
がこの句を重く大きくしている。それは、桜という花の大きさをより大きく提
示しているからに外ならない。

うぐひすに首のうしろの淡きかな  奥坂 まや
(「俳句四季」六月号)
 最近、鶯の声を聞くのは五月に入ってからが多い。梅に鶯というけれども、
梅の花の盛りには殆ど聞かない。山梨の田舎だけの現象なのだろうか。この鶯
の鳴き声たとえ五月であろうと絶品である。また、その姿も鳴き声にふさわし
い。
 〈うぐひすに〉の句、これ程、鶯の姿をこの鳥にふさわしく表白した句を知
らない。〈首のうしろの淡きかな〉という十二字、俳句は断定の文芸といわれ
ているけれども、この「淡きかな」という断定は、作者の手柄であり、俳句と
いう詞芸でないと果たし得ない力であるといっていい。このような俳句を詠い
たいために、多くの俳人は指を折っているのである。いい得て妙の秀品である。

服わぬものの一つに雪解光  高野 ムツオ
(「俳句通信」43号)
 俳句というたった十七字の詞芸であっても、なかなか自分の意のままになら
ない。あるいは十七字という型であるがゆえに、意に任せないのかも知れない。
もっというなら、この意のままにならない詞芸を、意に任せるように表白しよ
うとするところに、俳句の面白味があるのかも知れない。
 〈服わぬものの〉の句。〈雪解光〉のあのまばゆさは、とらえどころのない
光である。作者はそれを服従させようとしているのである。勿論、服わぬもの
と知りながらである。高野さんの俳句は、己のこころが表に現われている。
そのために作者と読者とでは読み取り方にへだたりがあるかも知れない。高野
さんの俳句は、私のような者より、一層高みにあるのかも知れない。
早く〈雪解光〉を己の光として欲しいものである。

花は今宙そらをあそびの国として  志摩 知子
(「和賀江」五月号)
 同時発表の句に〈夫なしの過ぎこし花は幾そ度〉がある。夫とは志摩芳次郎
氏のことであり、知子さんの夫なのである。芳次郎亡きあと結社誌「和賀江」
を主宰し、すでに二百号を超えている。
 〈花は今宙を〉の句からは、論客芳次郎の胸中を思わす豊かなあそび心が満
ちていて、俳句の今ある姿の示唆とも窺える。〈花は今〉といっているけれど
も、〈花〉とは俳諧のことであり、〈国〉とは句誌「和賀江」のことかも知れ
ない。作者の俳句とのかかわりが存分に窺える佳句である。

亀の背に乗つて朧となつてゆく  石田 時次
(「鬨」創刊号)
 石田時次さんは、松沢昭氏主宰「四季」の重鎮として知られている。「鬨」
は、「四季」の衛星誌としてまさに鬨の声をあげたことになる。これからの
俳壇の動ぎない石としての役割を大いに期待したい。
 〈亀の背に〉の句は、石田さんの心象俳句としての特徴が現わている。
しかし、俳句としての定型、有季、切れはしっかり守られていて詞芸としての
形式は引き継がれているといっていい。〈亀の背に乗つて〉という一節から、
作者の詩心は、現実から離れたところに浮遊しているかのようである。それを、
〈朧〉という言葉で現実にもどそうとしているのだが、朧では確りした足場が
ない。そのところを上手に納めているところに、石田俳句の新しさがある。

手毬つく音の盲ひてゐるごとし  八田 木枯
(「晩紅」30号)
 俳句はあらゆる事象を五感で感得し、それを、己の掌中で句に詠い上げるも
のである。だから、あくまでその事象は人間と等間隔でなければいけない。
そこに俳句詞芸の存在価値があるように思えてならない。
 八田さんの〈手毬つく音の〉には、作者の濃密な思いが存分に込められてい
る。〈盲ひて〉という表白が、まさに、それなのである。手毬つく単調な響き、
その単調さは正月の空の下には成程、ふさわしく大らかである。それが、一日
中続いていると、その響きはリズムとしては無くなってしまうというのである。
 たしかに、聴覚から消えて自然と同化するのかも知れない。その想いを、
作者は〈盲ひて〉と、とらえている。俳句にここまで、自分の想いを厚く表白
できるのは、あるいは八田木枯さんしかいないのかも知れない。

春宵や香煙鱒二書へなびき  雨宮 更聞
(句集「坡はきょう」)
 更聞さんとは、年齢もそれ程変わらない。蛇笏、龍太の俳句の里・境川小黒
坂に生まれ、今「白露」の同人として活躍している。更聞さんとは、「雲母」
時代、甲府例会に同席したこともしばしばあった。
 句集名「坡はきょう」の坡は傾斜した土地、はためらいなく受け入れる意と
いうことである。坂のある生活環境を享受しての四囲の実景からだという。
 〈春宵や〉の句は、(序にかえて)の中で「白露」主宰広瀬直人氏の秀作抄
に、全て語られているけれども、井伏鱒二と龍太師のつながりの濃さが十二分
にただよって読みとれる。秀品といっていいであろう。
 〈朧夜の遺品に満たすインクかな〉〈草青む後山へ開く棺窗〉〈天道に鳶の
滑空龍太の忌〉。句集「坡」は、師龍太を回想する時には離すことのできない
一書といっていい。

駄菓子屋の玻璃窓明り水温む  老川 敏彦
(「昴」第8号)
 先師・石原八束が、伝統俳句の中に、西欧象徴詩の手法を入れ、季語を自然
の窓ととらへ、人間の内側を見つめる〈内観造型論〉を俳句詠法の自論として
「秋」を結社して世に問うたことは、ご承知の通りである。老川主宰は「秋」
が、八束主宰となる一年前、即ち昭和四四年に「秋」に入会している。先師、
八束に育てられた秘蔵の一人といっていい。老川主宰の俳句はだから、季語を
自然の窓とし確りと「秋」の径を歩んできた。
 〈駄菓子屋の〉の句、駄菓子の硝子窓のあかるさを見て、作者はそこに春を
感じたというのである。表面的な句意はどこにでもみられる平凡な情景である。
しかし、老川主宰の句からは、日本の原風景が窺えてならない。それは、常に
日本語をしっかりと伝えたいという意がひそんでいるからである。〈水温む〉
という季語を、駄菓子屋の玻璃窓に見てとる感覚は、やはり日本人特有なもの
ではないだろうか。十七字という俳句の定型を大事して、二十一世紀の俳句を
詠い継ぐ姿を、私達は老川主宰の俳句の中から学び取らなければいけない。
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