21世紀をたのしむ「昴」俳句会
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詩性探求 早瀬秋彦  昴 第8号
2008-06-29-Sun  CATEGORY: 昴 8号
詩性探求  早瀬秋彦

鶺鴒に急かされてゐる余生とも  仁木 孝子

 敏捷な動作で川原の石を叩くように渡り歩く鶺鴒の姿に、作者は羨望のまなざしを向けていると思われる。そして、次第に老い深みゆく日日の淋しさを噛みしめている。人生観照の混濁した暗がりの中を、目の覚めるような動きと色彩が鋭く行き来する対照の中に、詩性が疼くように頭を擡げる。俳句詩芸の味わいはこのような処にあるのかもしれない。

狐火や上目づかひの女達  岸本 正子

 狐火という幻想的な季題を得て、作者の作句意欲が殊更に掻き立てられてくる。虚の世界への執拗な挑みが、人間世界への鋭い洞察を呼び覚ましている。作者の半生に亘る人生経験の中で、狡猾に巧みに生き抜いている女性達の姿を多く見聞きして来たと思われる。世のさまざまな苦難にもめげず、中傷にも負けず、常に柔軟に対応して生き続ける女性達を「上目づかひ」という表現で巧みに揶揄している。諧謔と諷刺の効いた作品である。

下伊那は柚べしアルプス兵の墓  久 篤子

 長野県の伊那地方には、筆者もかなり昔に数日滞在したことがある。天竜川が近くを流れ、中央アルプスが眼前に高く聳え、風光明媚であった印象が今でも胸に刻まれている。作者もその地方に消し難い思い出があって掲句を為したものと思われる。柚べしはこの地方の昔からの産物であり、素朴な庶民の生活の中から紡ぎ出された地味な食べ物であり、アルプスの青々とした山容も美しい。しかしその風光明媚な山里にも、戦争による悲しい傷痕が残されていた。「兵の墓」とさりげなく置かれた座五に、作者の万感の思いが込められている。

桃青も蕪村もはるか冬銀河  定松 静子

 俳句を志す者達にとって、芭蕉と蕪村とは共に心のふるさとであり、終生つきまとう願望としての存在である。芭蕉即ち松尾桃青は「おくの細道」に於てみちのくを旅し、蕪村もまた若い頃常盤ひたち結城を拠点として遠く津軽まで旅している。互いに百年の隔たりがあり、作風も境涯も異にする両者が、現代の俳句作者達に与え続けるものは豊かで深い。作者はそんな思いを胸に、漂泊の途に吟じた両俳人への崇敬の念を冬銀河に託して偲んでいる。

清水屋書店消ゆ仲見世に冬の月  土田 京子

 浅草仲見世入口右側にあった清水屋書店は、そこの店主であった黄雀さんの面影と共に懐しい。俳誌「秋」が何時も置いてあったことでも知られている。しかし、歳月の流れと共にその書肆も消え、今は跡形もない空間に相変らずの参詣の人波が行き来している。作者は或る日の暮れ方そこを訪れて、無量の感懐に浸っていたものと思われる。天空に浮かぶ冬の月に、黄雀さんをはじめとした「秋」の古い連衆の顔々が滲むように浮かんでは消えてゆく。懐旧のしみじみとした作である。

職退きてよりの褪せ色冬帽子  長沼ひろ志

 長い年月を仕事一途に勤めて来た作者も、定年を迎えてから自由な身となり、第二の人生の充実を期して頑張っている。堅実に歩んで来た半生への思いが、しばらくは作者の胸に搖曳していたが、歳月の深まりと共に、その執着も次第に薄れて、作句一途への転換に拍車を掛け始めている。愛用の冬帽子も、ふと見ると次第に色褪せた感じに見える。風雪にまみれたその「褪せ色」を、殊更に愛しみ慈しんでいる作者の風貌が浮かんでくる。老成の文学としての味わいのある作品である。

遺児五人育てし母の菜つぱ飯  篠田 重好

 父親の早逝或いは戦死によって、遺された子供五人を育て抜いた母への崇敬の念がこの一句には込められている。各々が成人するまでの長い年月の間、筆舌には尽し難い苦労があったことと思われる。しかし、常に弱音を吐くことなく、子供達には泣き顔すら見せずに頑張り抜いて来た。そんな気強い母も年齢の深まりと共に白髪も増え、顔の皺も目立って来ている。手作りの菜っぱ飯を、母の真心と受けとめるままに、味わっている作者のしみじみとした風貌が想像される。

粧はず生きゆく余生初鏡  神戸 和子

 俳句は老成の文学とも言われている。即ち長い年月をかけての人生経験が、一句の中に豊かな気息として込められ、読む側の心に迫る味わいにもつながってゆくということである。勿論若い頃の才気煥発な意欲による詩的発想も貴重なものであるが、年輪を増しての開き直りというか、世の中の表も裏も知り尽しての感懐の中に、熟達した表現の冴えが現われくるものと思われる。掲句は淑気に満ちた新年の雰囲気の中で、鏡に向かっている一女性の姿を彷彿とさせる。「粧はず」という上五の表現の中に、作者の衒いのない晩節の生活感覚が息づいている。

日脚伸ぶこゑあげさうな沼ひとつ  火野 保子

 如何にも作者らしい感覚描写の一句である。この中七は擬人法なのであるが、すんなりとして嫌味を感じさせないのは作者ならではと思われる。〈芋の露連山影を正しうす 蛇笏〉という稀少な成功作品に通うものを掲句から感じさせられる。次第に春の日射しが感じられる季節となり、作者はひと日郊外へ散歩に出かけたと思われる。ふと静かに澄み極まった沼岸に佇んで、その声を聴いたような錯覚に襲われる。〈琅や一月沼の横たはり〉は波郷の世に知られた作であるが、その青々と沈黙を保っていた冬沼が、春の陽光を浴びて声を出しそうだというのである。痛快な発想の妙が読む側の心に響いてくる。

定まりし自分の色や衣替へ  齊藤眞理子

 作者の生活感覚が違和感なく伝わってくるのは、「定まりし」という上五の効果と思われる。若い時からさまざまな衣装に気を配って来た作者が、次第に熟年になるにつれて、自分なりの色を好み、定着して来たといのである。男性には解らない女性独特の色彩に対する感覚というか、しっとりとした日常につながっているあたりが、この一句の魅力なのかもしれない。

搾乳の農婦無口に息白し  國分 利江

 遙かに山並みなどが見えるローカルな風景の中で、搾乳に余念のない農婦の姿が浮かんでくる。寒々とした朝の牧場の様子も見えてくる。そして、牛達の匂いなども感じられてくる。作者はかつて福島に暮らしていたことがあり、そのあたりで見た情景とも思われる。この一句が読む側の心にリアルに迫るのは、「無口に」という中七の描写と「息白し」という座五から来ている。寒々とした自然環境の中で、黙々として仕事をしている一女性の地道な性格さえも感じられてくる。

ころげ落ちさうな老坂山笑ふ  林美智子

 俳句独特の季語の効果を巧みに取り入れた一句として注目した。晩年にさしかかった作者が、己が脚の衰えにいつも気を配り、轉げまいとしている日常が感じられてくる。作者はその思いを「老坂」という表現に託し、その坂をころげ落ちる幻覚をさりげなく添えている。春先の次第に華やいでくる山々の情況が「山笑ふ」という季語なのであるが、その「笑ふ」というところを、恰かも大自然が晩節の作者を嘲笑しているかにも思わせる。このあたりが俳句表現の醍醐味と思われる。

寒明けのやや短目の影の丈  伊勢谷峯雨

 作者の感覚描写が効を奏した一句である。正月が過ぎ寒も明けて、次第に春の兆しが野山や郊外に感じられてくる頃、作者はひとり散策に出かけたのかもしれない。寒さの中で凍えていた日日から解放されて、心持ちゆるやかになった日射しを身に感じながら、一歩一歩街中から郊外へ出てゆく作者の姿が思い浮かぶ。「やや短目の」という中七の描写の中に、都会人としての粋な生活感覚の中から発想された息吹のようなものが込められていて快い。季節感が横溢している。

  負ひきれぬもの背負ひ来しちやんちやんこ  原  繁子

 己が半生を振り返っての、しみじみとした感懐がこの一句には込められている。「ちやんちやんこ」という季語が、人肌に触れたあたたか味と、風土の感触を伝えてくる。そして、子育てをはじめとして、さまざまな苦労に耐えて来た女性としての半生への回顧が上五中七の象徴表現から伝わってくる。幾人もの児を背負い、地道に歩み続けて来た母の姿の中から、血の通った人間としての味わいが滲むように伝わってくる。

冬蜂は傷つきやすし怖れをり  谷口 秀子

〈冬蜂の死に処なく歩きけり〉という村上鬼城の象徴的な作が思い浮かぶ。作者もやはり、よろよろと力なく翔び続ける冬の蝶を見て一句としたと思われる。そして、その蝶の姿から老いゆく己が姿を思い、怖れを感じたというのである。しかもこの一句の焦点は中七の「傷つきやすし」という表現にある。蝶の生態から連想したものは、一寸したことにでも動搖して傷ついてしまう、女性としての繊細な性格なのである。作者は南国串間に住んでいるが、掲句からは現代に生きる都会人としての微妙な心理が感じられてくる。

南国の空の群青鵙猛る  木島 幸子

〈滝落ちて群青世界とどろけり〉という水原秋桜子の有名な作が彷彿とする。筆者もかつてその地を訪れたことがあるが、日南海岸に代表される南国宮崎の風光は、まさに群青というイメージに尽きるものがある。作者はその南国の空気を胸一杯に吸って、屈託のない思いのままにこの一句を吐露したものと思われる。澄明な群青世界を鋭く切り裂くような鵙の声が、読む側の心に突き入ってくる。

看取り終へし歩みに風の光りけり  福冨 清子

 肉親を看取り、その葬を終えた作者の、切実な心境の中から発せられた一句として心に迫るものがある。さまざまな苦労や、悲しみも、また束の間の喜びや感動のひと時もあったことと思われる。己が若き日を過ごした金沢の地へ、作者は気強く幾たびも足を運んだ。しかし、今はその思いが忽然として断たれるかのように、最愛の魂は幽明の彼方へ消え去って行った。複雑な思いを胸に春兆す道を歩み続ける作者に、風光る季節が澄み透るように感じられたというのである。

掌  てのひらに丸薬六ツ冬の暮  渡辺 二郎

 最近体調を崩して入院した作者の、偽りのない生活実感の中から醸し出された作品である。俳句は巧みな描写も必要かもしれないが、読む側の心に直截に響いてくるのは、やはり作者の真心から発せられた言葉なのかもしれない。掲句は予後の日日に飲み続けている丸薬を、それとなく掌に乗せて見つめていたひと時を素直に描写して示している。ぼそりと呟いたような座五の「冬の暮」という描写も飾り気がなく如何にも作者らしい。多くを言うことなく、物で示す俳句の醍醐味がここにある。

吊皮を持つ寒荒れのわが手かな  西田 綾子

 電車の吊皮を握った己が手を、しみじみと見つめている女性としての作者の姿が思い浮かぶ。そして、その手から日常の生活の疲れと年齢の深まりとが感じられたというのである。しかも寒い冬の季節の中で健気に頑張っている己れに対して、励ますような思いでその手を見つめていたのかもしれない。「寒荒れ」という無雑作な描写が、殊更にリアルに感じられてくる。

人生や過ぎゆく干支の七廻り  平野 欣治

 最近息子さんを亡くすという逆縁に遇った作者の、切実な心境の中から吐露された一句である。上五の「人生や」という詠み出しに、作者の溜息が込められている。長生きをするということは、一見嬉しいようでもあるが、悲しいことにも遭遇するということを、作者は「干支の七廻り」というさりげない表現によって示している。老成の息吹きが込められた作品として心に響くものがある。

すつぴんの富士の全容鰯雲  本田ハズエ

 最近卆寿を越えて長逝した画家片岡珠子の作品を彷彿とさせる一句である。作者はおそらく晴れ渡った秋の一日、富士山の周辺に遊んだ折の印象を詠んだものと思われる。上五の「すつぴん」という俗語的な表現が、却って定着して感じられるのは、作者の素直一途な作句態度から来ていると思われる。惜しげもなく原色を配した珠子絵画のような無心な大らかさが、この一句の魅力につながっているのである。
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